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旭川龍谷高等学校 郷土部


創部以来「上川アイヌの文化研究」をフィールドワークに
by ryukoku-kyoudo
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■財団法人 アイヌ文化振興・研究推進機構
私たちのフィールドワーク:アイヌの人々の歴史・文化・言語を広範に知るにはここ



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創部40年の節目にあたり その原点を顧みれば

 旭川竜谷高等学校・郷土部です。私たちは、自分たちの生活する街、地域のルーツはどのようなものであったのかを、現在から過去にさかのぼり、その時代背景や文化の状況などを地域の皆さんとともに、活動を通して研究し日々学んでいます。
創部40年の節目にあたり その原点を顧みれば_c0105148_16384012.jpg
 私たちのクラブは、創部が1967年ですからちょうど2006年で40年の活動暦になります。創部以来の活動テーマはひとつ。それは、「上川アイヌの研究」です。みなさんは、「アイヌ」ということばから何をイメージされますか?・・・きっと、様々でしょうね。

 では、私たちのクラブの創設の経過を振り返り、少し説明したいと思います。
 
 創部時の顧問は、福岡イト子先生でした。先生はすで本校を退職されていますが、当時を振り返り書かれたものから抜粋紹介してみます。
(前略)
「郷土部の生徒たちによる自主的な部活動【上川アイヌの研究】は、開道(北海道)百年を翌年に控えた1967年に始まります。そのころ、北海道では明治2年1869年8月15日、蝦夷(エゾ)地を北海道と改められから百年を記念するの当たって、開拓の歴史を記録する必要性や文化財の保護が叫ばれていました。50名を超える部員たちは、「北海道に開拓の鍬が振り下ろされて百年目というけれど、私たちが住んでいる身近なところに、私たちが知らない歴史や文化を持った人たちが現実に存在している。そこには、アイヌの文化を確かに伝える誇り高い古老が生きている。おかしいのではないか」と問題意識を持ち始めました。
 いま、私たちが生きているこの地に、それ以前アイヌの人々がいて、どんな文化をもたらしたのか、それを受け継ぐことにより北海道に生きる人間としてどう関わっていくけばよいのか、ということからアイヌ文化の研究がフィールドワークとなりました。」(後略)

 これが、私たちの部の出発点でした。また、当時の風潮として、アイヌ民族は、「滅びゆく民族」という流れにあったということで、先輩たちは、なおさらアイヌ文化・風習の記録作業を急がねばならないという義務感を抱きながら活動を積極化させたと当時の記録にあります。

# by ryukoku-kyoudo | 2006-11-04 16:03 | 私たちのこと

私たちの活動を高く評価してくださったこと

■部の活動目録(おもな受賞歴)
私たちの活動を高く評価してくださったこと_c0105148_16454711.jpg


昭和46年旭川市文化奨励賞 受賞
昭和47年北海道文化財保護功労者賞 受賞
昭和50年北海道高等学校文化連盟郷土部10周年 記念表彰
昭和61年北海道高等学校郷土研究発表大会 最優秀賞受賞 
平成 6年~平成8年 3年連続
       北海道高等学校郷土研究発表大会 考古・民族部門 最優秀賞受賞
平成10年~平成13年 4年連続
      北海道高等学校郷土研究発表大会 考古・民族部門 最優秀賞受賞
平成12年全国高等学校総合文化祭 代表校
       「郷土研究部門 民族・文化分野」最優秀賞受賞
      旭川市教育委員会教育奨励賞 受賞
平成14年北海道高等学校郷土研究発表大会 郷土研究部門 最優秀賞受賞
      全国高等学校総合文化祭 文化連盟賞受賞
       「郷土研究部門 民族・文化分野」最優秀賞受賞
平成15年北海道高等学校郷土研究発表大会 郷土研究部門 最優秀賞受賞
平成17年北海道高等学校郷土研究発表大会 郷土研究部門 最優秀賞受賞

# by ryukoku-kyoudo | 2006-11-04 15:10 | 活動目録

 「上川アイヌ」について

 北海道の地名は、そのほとんどがアイヌ語と密接に関係するといっても過言ではありません。地名に限らず、山や川、動植物の名にいたるまで広範です。北海道の中心に位置する広大な上川盆地、そこに私たちの街・旭川があります。「上川」というのは、ペニウンクル=川上の人、つまり北海道の大河・石狩川の上流に住む人、の意味です。
【石狩川:北海道の屋根大雪山連峰のひとつ石狩岳源流とし、旭川市内で4つの支流と合流、石狩平野を流れ、石狩湾へと注ぐ大河】
 「上川アイヌ」について_c0105148_164138100.jpg

 この上川の地にコタンを形成し、自然とともに暮らしていたのが上川アイヌの人々です。生活(狩猟)圏を持ち、自然からものを必要なだけいただき、自然からの贈り物に感謝し、つつましく生活していたということです。

【北海道の地名で、アイヌ語に起源を持つ一例】
北海道の市町村名の8割がアイヌ語を元とするといわれてます

札 幌 サッポロペッ :sat poro pet  (乾いた広大な河)
苫小牧 トマコマナイ:to mak oma nay  (沼の奥にある川)
稚 内 ワッカナイ:yam wakka nay  (冷水のある沢)
知 床 シレトク、シレトコ :sir etok  (地の果て)
富良野 フラヌィ: huranuy (臭い匂いのする所)

アイヌ語の音に漢字を当てたたり、意味を漢字で表現したものも含めて北海道内に数多くあります。みなさんがアレ、とおもうものにこんなのもありました。

キロロ kiroro   (女性の歌手ユニット・地名)
ノンノ non-no (有名ファッション雑誌・花の意味)

# by ryukoku-kyoudo | 2006-11-04 11:04 | 私たちのこと

活動は一貫して体験学習

 私たちの活動はすべて体験学習からスタートしたとあります。これは、アイヌの人たちは、文字を必要としなかったために、その歴史や伝統文化などの記録が残されていないことからでした。現在では、アイヌ文化後継者や多くの研究者、関係者によりアイヌ語辞典からはじまり、多様な書籍もありますが、当時はほとんど見かけないという状況でした。
 先輩たちは、こうしたなかでアイヌの文化にどう取り組んで行ったかを紹介します。
 活動は一貫して体験学習_c0105148_16432169.jpg
1:旭川市郷土博物館に陳列されているアイヌの人々の生活用具を見に出かけた。しかし、その用具がどのような材料でどうのような目的で、どのように作られたのか、まったく理解できなかった。
2:郷土博物館の館長さんが、アイヌの方々との交流の場面を橋渡ししてくれた。これをきっかけにして、古老たちとの交流する場面が出来た。
3:エシカ(おじいさん)、フチ(おばあさん)がたとの交流の中で、アイヌの人々が使った用具や、伝統などを直接触れさせてくれ、見せてくれた。「見て覚えろ」といわれるのがいつもだった。文字を持たないアイヌの人々は、子孫に「見て覚えろ」、「考えれば分かる」と文化を伝承してきたから、これは当たり前のことなのだ。
4:つまり、私たちの活動はこうして「体験学習」にならざるを得なかったのです。

# by ryukoku-kyoudo | 2006-11-04 10:05 | 私たちのこと

私たちの活動に様々な情報を与えてくれるWEBサイト

■アイヌの人々の歴史・文化・言語を広範により詳しく知るにはここ
財団法人 アイヌ文化振興・研究推進機構

■アイヌ語・文化を学問的に研究している講座
千葉大学文学部日本文化学科ユーラシア言語文化論講座
「アイヌは日本の先住民族」
 2004年12月10日、「世界の先住民の国際の10年」がひっそりと終了した。11年前の1993年、国連は「世界の先住民の国際年」を宣言し、先住民作業部会によって「先住民族権利宣言」が作成された。そして翌1994年の12月10日、先住民族問題の解決を国際的に取り組んでいくために「先住民の10年]が宣言された。しかし、この10年間に何が変わったのか? 10年前に作成された「宣言」は、いまだに国連総会で採択されていない。そして、日本人の大半は相変わらず「日本は単一民族国家」だと考えているのである。

■創部期の顧問・福岡イト子先生関連
福岡イト子 北海道立北方民族博物館 「のるりすと」ページ


■アイヌとは
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 アイヌ民族は、日本とロシアにまたがる北方先住民族で、歴史的には本州東北部から北海道、千島列島、樺太(サハリン)を生活圏としていた。現代においては北海道を中心に関東ほか都市部で生活を営んでいる。ウタリはアイヌ語で同胞、仲間を意味し名称などで使用されるが、民族呼称ではない。
 千島のアイヌは1875年の樺太千島交換条約後、その殆どが当地を領有した日本政府によって色丹島へ強制移住させられた。樺太のアイヌは第二次世界大戦後にその殆どが当地を占領したソビエト連邦政府によって北海道へ強制送還されたが、現在も樺太には少数ながら住んでいる。

# by ryukoku-kyoudo | 2006-11-04 09:10 | 私たちのこと